昭和42年8月23日 朝の御理解
  
 
 伊万里の竹内先生達親子五人でお礼に出て見えられました。控えでお茶でも差し上げながら、色々お話をさせて頂いたり、聞かせて頂いたりしたのですけれども、中には丁度若先生も一緒でしたから、先生先日のボーリング大会はどうでございましたかと、云ったようなお話もありました。先日からのこの青年会の方達が男女青年会の方達がボーリング大会に貰っています久留米の賞は、私は行ったことがございませんからどういうことをする遊技かまあ遊技なんでしょうね、スポーツかも知れません。私は初めて聞いてからまあちょっとした驚きを感じたのですけれど、第一あの入場する時にですね、例えば開襟シャツ一枚ぐらいだったらお断りだそうですね。ポっと背広を着込んで行かなければならない。えらい厳しい遊びがあるもんだと思ったんですけれど、段々聞かせて頂いているうちに成程と合点することがございました。様々な一つの約束と云うのが競技の上にもございましょうけれども、そこで一緒に遊んで居るものが気持ちよく、しかも楽しく出来る為に色々なマナーと云うですかね、そのきまりがございまして、まあ云うなら厳粛な中に紳士淑女が競技をして、そしてお互いが楽しみ合うという競技らしい、今時珍しい競技だと思いますね。暑い時には涼しい格好をして、云うなら私はまあ浴衣掛けででも入れるのかと思うたらなかなかどうしてそうじゃあない。しかしそういう風なきちっとした服装一つでも、でななからければ入場出来ないというようなその話を私は聞かせて頂いておってから、思うのでございますけれども、やはり信心の稽古をさせて頂くでも同じ事だと、ここに中にお参りして、そりゃあもう云うなら、紋付袴を付けたりつけなかったりと云う感じでございますよね。お互いが、私共が紋付袴を付けておりますこれは御神前に側近く奉仕させて頂くものでございますから、こうしなければおれないと云う訳でございますけれども、それがお互いの心の上にです、やはり紋付袴でも付けたような心持ちが私は先ず第一必要であると思います。
 それは開襟シャツでも構いません。浴衣掛けでもいいのです、けれども、心には紋付袴を付けておると云うようなわたしは毅然とした態度で神様に向かう。そういう厳粛な態度で信心の稽古をさせて貰う。
 例えば中学校、高校、大学と云うことになりますとです、やはり勉強に行くのだからどんな格好をしてもよかろうもんだけど、そこの学校そこの学校の制服というものがありまして、それを一つでも乱したらやはり、そういう例えば、ズボンが違っても上着が違うても帽子をかぶっていなくても、注意を受けるようなものがあります様に、ましてや信心の稽古をするのでございますから、そういう私は心掛けが必要であると思いますね。じゃあエプロン掛けでは参られんか、成程エプロン掛けでは参られんことはないけれども、エプロン掛けで来たならエプロンだけくらいは外す心掛け、気持ちがなからなければいけんのじゃあなかろうか。前掛けだけでもええから、先ずお広前から前掛けひとつくらいは取らせて貰う気持ちが必要ではないだろうか。勿論形だけのことではありません。信心は心を持って中心とするものでございますから、やはり自分の心の上に私はきちっと紋付袴が付けられておるかどうか、ここで私共思いますけれどもね。紋付袴を付けなければ、どうも御神前に出られないです。十一時頃になりますと私は十時半頃毎日いつも紋付袴を取らせて貰うんですけれども、その後参ってきたら浴衣掛けなのです。どうもここに出られない。と云うて着替えればいいけどもようしませんから、下から御祈念をすると云うようなことになってくる。それは何時も心に紋付袴を付けておらなければと云う、私は形の上にもそれを感じるのです。私はお互い信心の稽古をさせてもらい、椛目から合楽に移らせて貰い、椛目は大体そういうことをやかましくいう訳ではございませんのですけれども、何とはなしにそういう雰囲気が非常に濃厚であったことは、そりゃあ多少の非難はございました。
 椛目の村の方達が金光様に参りたいばってんが、そげしてみんなよそゆきしたごとしてこらっしゃるけん、私どんは中々お参りが出来とないと云ったような非難がある。土地の御信者さん方がこういうようなことを言う者があるから、ほんとにエプロンがけでもお参りが出来る雰囲気を作らなくてはいけないと云うような注意を受けたのですけれども、それはたとえ家族のものであろうが、近所のものであろうが神様の前に出らせて貰う、信心の稽古に通ってくるからには、やっぱり上着一つでも取り替えてくる気持ちでなければ私は本当の稽古が出来ない。
この頃聞かせて頂いた話ですけれども、当時高橋正雄先生といやあれば私は金光教の高橋か、高橋の金光教かと言われる程に有名な先生でございました。東京のどこかの公会堂で講演をなさった。ところが、実に素晴らしい先生のお話ですから、素晴らしいお話だったらしいんです。ところがその入場者というものが実にわずかであった。それから数日後何か地方の方がやっぱり信仰関係でないですけれども講演があった。その時には当時の金で一円ぐらいの入場料を取られた。勿論高橋先生の場合は全然入場料は信仰の話ですから入場料は取られなかった。
 ところがですね、その公会堂で一ぱいだった。その公会堂で同じ立場でその話を聞き、高橋先生の話を聞き、又その次の講演の話を聞いた新聞記者がですね、全然話が問題ではない。先日あった金光教の高橋正雄先生のお話は素晴らしいお話であったけれども、入場者がなかった。それから数日後のだれだれさんの講演は本当にたいした、いわば下らん話であったけれどもあれだけの入場者があったと云うのは、何処にそういう原因があったか、金光教はあんまりもそのいわば、お話を安売りしすぎるというような評をしたと云うことでございます。
 最近ではあの生長の家とか、天理教あたりでも常岡さんあたりが話をなると全部やっぱり入場料を取っています。ただで聞かせる話というのは皆がお粗末にするのです。例えば話を聞きましても、いくらか出しとると聞かなきゃ損する、何かそこから持って行かなきゃ損するといったものがあるのです。そういう意味合いでです、やはり稽古をする。話を聞くでもやっはり一つそうしたささやかな、はまりといったようなものが、お金を出してからでも稽古をする。いうなら服装くらいがかえって私はお参りをする、お話を聞くと云うことはそういう風な私は意味あいから云うても大事なことだと思いますね。
 お参りをするからには、服装から替えて行かなければならん。ですから、やはり頂き方もやはりはまって頂くであろう、御祈念も確かに私どもが浴衣がけで御祈念するよりも、確かに紋付袴を付けた方が有難い御祈念が出来ることも事実です。
 ですから信心はどこまでも心が問題でありますから、心に紋付袴を云えばそれまでですけれども、それを同時に形の上に於きましても、ちょっと工夫をしなければいけません。開襟シャツを着てる人はちょっとそれに上着でもかけて來る気持ちが要ります。それだけの人はネクタイをはめて來る必要が要ります。エプロン掛けておる人は取ってくる必要があります。前掛けをして來る人はそこでもよいから外してお広前に入って來るというぐらいな心掛けが必要です。
 それはボーリングと云う遊技がどういうものか私は知りませんけれども、そういう遊戯競技すらがそうしたひとつのエチケットと云うものを守らなければ遊技が出来ない。そういうマナーを学ばなければ入場も出来ないと云うようにあるのを聞かせて頂いて、まして信心に於て親であると云うことを高橋先生の話を聞きながら感じたのです。
 皆さんどうぞ心の上にも形の上にもそういうような心掛けと云うものが信心させて頂く上には必要であることを知っておかなければならない。
 気取るわけではない。威張るわけではない。高ぶる訳ではないけれどもです、私はそのくらいな心掛けが必要だと思います。 どうぞ。